「6月4日を忘れるな」~天安門事件から20年

  学生や労働者による民主化要求を武力で弾圧した「天安門事件」(1989年6月4日)から20年が経つ。

 「言論の自由」の旗振り役で学生、知識人らから信頼の厚かった胡耀邦総書記の死去(同年4月)を契機に北京で始まった学生らの集会・デモは、燎原の火のごとく全国に広がった。6月に入ると50万人を収容できる広大な天安門広場を学生や労働者が埋め尽くし「政治改革」を求めた。中国共産党の一党独裁を揺るがしかねないほどの勢いとなっていたのである。

 学生らの勢いが頂点に達した6月4日、人民解放軍の戦車が隊列を組んで突如広場に現れた。解放軍は戦車搭載の機関銃から集会参加者に向けて発砲した。キャタピラーに轢かれて、「のしイカ」のようになった死体も散在した。当局の発表によれば「死者は319人」ということになっているが、よほどの親中派でもない限りこの数字は信じ難い。
  
 天安門事件は国際世論の非難を浴び、以後中国政府にとってタブーとなってきた。故・鄧小平は遺書の中で「人民解放軍の出動を命じたのは誤りだった」と悔いている。「鄧小平の遺書」は怪文書あるいは捏造との説もある。だが、鄧小平の死をメディアの速報より20分も前に筆者に電話で知らせてくれた中国人ジャーナリストは、「鄧小平の遺書はある」と断言する。

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林さんらは中国大使館に抗議文を手渡そうとしたが、警察に阻まれた(東京・麻布で。写真=筆者撮影)

 当時の学生リーダーたちの多くは米国などに逃れ、今も母国の民主化運動に携わっている。この日本でも母国に帰れなくなったり、逃れてきたりした中国人たちが民主化運動を続けている。

 「民主中国陣線」日本支部主席の林飛さんは、88年に来日、東海大学在学中に天安門事件が発生した。中国の政治体制批判を始めた林さんは、妻と息子を中国から香港に亡命させた。香港は当時イギリス領で思想信条の自由が保証されていた。97年に香港が中国に返還される直前には、日本に呼び寄せ、帰化させた。

 林さん率いる「民主中国陣線」は、チベット弾圧に反対するデモ・集会にも参加する。「89年3月のチベット弾圧が6月の天安門事件につながった」という認識があるからだ。民主化運動と少数民族問題は、中国政府にとって目の上のタンコブなのである。

 直近の日曜日にあたる5月31日、林さんらは自動車を連ねて都内をパレードした。目的地は麻布の中国大使館だ。「私たち中国人はこの日(天安門事件発生の89年6月4日)を忘れてはいません」「一党独裁を放棄するように(中国政府に)呼びかけましょう」……。スピ-カーからのアピールが日曜日の繁華街に響いた。

 89年当時、北京の出版社に勤務していた宋建栄さん(仮名)は、天安門広場の集会に参加した。皮切りとなった4月の胡耀邦総書記の死去から6月の事件発生まで天安門広場に通った、という。

 「学生が戦車に火をつけた。戦車が学生を轢き殺した」。昨日のことのように宋さんは話す。公安当局にマークされた宋さんは翌90年、日本に逃れた。

 「言論弾圧、納得できないね」。宋さんが憤りながら話していると、横から妻が遮った。「話したらだめよ」。宋さんは「家族が中国にいるからね。これ以上話せないよ」と事情を明かしてくれた。

 20年もの歳月が経ち、遠い異国にいても天安門事件は中国人の人生に重くのしかかっている。

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