【スリランカ・コロンボ発】 スマトラ沖地震による津波がスリランカを襲って1カ月余りが経った。内外メディアの報道はインドネシアのアチェ、タイのリゾート地などに注がれがちだが、スリランカでは3万959人が死亡、5563人が行方不明(スリランカ政府まとめ、1月30日現在)となっている。
震源地に面した東部、北東部沿岸の被害は甚大だった。港は破壊され、魚網、ボートは津波にさらわれた。丸ごと消えた漁村もある。東部と北東部は反政府武装勢力、タミール・タイガーの支配地域だ(地図参照)。20年間にわたる内戦で疲弊した地域を津波が襲ったのである。
復興をめぐってもタミール・タイガーと政府との間には軋轢(あつれき)があるが、津波災害も含めて実情はあまり明らかになっていない。被災、復興の実態を取材するため筆者は現地に入った。
~内戦の構図~
1956年の総選挙で政権を握ったスリランカ自由党が、仏教徒で多数派のシンハラ人優遇政策を始めたのが、民族対立のきっかけである。1948年に英国の植民地支配から脱する前は、大規模な武力衝突は見られなかった、という。
シンハラ人は人口の74%を占める多数派で、タミール人(ほとんどがヒンズー教徒)はわずか18%の少数派だ。しかし、海をはさんでスリランカに隣り合うインドのタミルナド州には8000万人ものタミール人がいる。紀元前6世紀に自らもインド北部から渡ってきた歴史を持つシンハラ人にしてみれば「タミール人のほうがマジョリティでは……」との圧迫感もあった。
政権の座についたスリランカ自由党は、シンハラ語を唯一の公用語とし、仏教を国教と定めた。タミール人地域の東部、北東部への国有企業進出を中止する一方で、これら地域にシンハラ人を大量に入植させるなどした。政府による民族主義的な政策にタミール人は反発を強め、小規模な暴動が断続的に起きていた。
83年、タミール人過激派が北部のジャフナ半島で政府軍を襲撃したのをきっかけに、南部ではシンハラ人によるタミール人虐殺が発生した。抗争は拡大し、内戦へと発展する。6万人が死亡、80万人が国内避難民となった。ノルウェーの仲介で2002年、停戦合意が成立し武力衝突は現在、沈静化している。
~津波からの救援・復興を和平のバネに~
クマラトゥンガ大統領はタミール・タイガーの自爆テロで負傷した経験を持つ(99年)。タミール・タイガー懐柔政策を掲げるウィクラマシンハ首相とは対立関係にあり、かつて非合法だった仏教徒による急進政党を取り込むことで、かろうじて政権を維持している。
東部、北東部地域での救援・復興をめぐっても、政府とタミール・タイガーとの間で主導権争いがあった、と一部メディアが報じた。
津波災害を機に内戦の実情を国際社会に上手にアピールすることで、今後の和平交渉に利用しようという思惑は、政府とタミール・タイガーの双方に確かにある。
しかし、国際社会から送られる救援物資の窓口になるのは政府で、実際に被災民への配布作業を行うのは、タミール・タイガーなのである。20年間も続いた厳しい対立を乗り越えるのは容易ではない。しかし、救援・復興がもたらした「協調路線」を機に、和平プロセス促進の期待が内外で高まっている。
次回からは被災後、復興が緒についたばかりのタミール・タイガー支配地域からリポートする。