アフガニスタンは3,000-5,000m級の山々が連なり、国土の4分の3が山地だ(地形図参照)。空路アフガニスタンに入ると、カブール国際空港に着くまで飛行機の窓から見えるのは切り立った山と谷ばかり。褐色の山肌に、白い綿帽子のようなものがポツリポツリと見える。万年雪だ。車で国内を移動すると、雲を下に見るような峠道に驚くことがある。
峻厳な山は地方と地方を隔てる天然の要塞となる。ここにパシュトゥン人(全人口の42%)、タジク人(27%)、ハザラ人(9%)、ウズベク人(9%)などが棲み分ける。日本のように国勢調査があるわけではないので、これが絶対という数字はないが、民族比は大体以上のようになる。
過半数を制する民族は存在せず、いずれも好戦的で勇猛果敢だ。そして民族ごとに軍閥を形成する。これに民族的につながりの深い近隣諸国が介入する。内紛の絶えない構図がある(地図参照)。
棲み分けと近隣諸国とのつながりは次のようになる。▽パシュトゥン人は東部・南部に多く住みパキスタンと深いつながりがある▽タジク人=北東部=ソ連(当時)▽ハザラ人=中央部=イランなどとなる。つながりとは武器援助や資金援助などである。首都カブールは民族のる壷のごとく混在する。
治安の悪化が伝えられるアフガニスタンを筆者は昨年秋、5年ぶりに訪れた。米国が錦の御旗として掲げる「テロとの戦い」の下、人々の生活はどうなっているのかを取材するためだ。
カブール市内を迷彩色の装甲車が編隊を組み猛スピードで走る光景を見ない日はない。装甲車はISAF(International Security Assistance Forces=国際治安支援部隊)に参加する国々のものだ。車体に色とりどりの国旗を付けているので、どの国の車両なのか、ひと目でわかる。
ISAFは米軍が北部同盟と共に首都カブールを陥れた直後の2001年12月、「国連安保理決議第1386号」に基づいて設けられた。発足時は18カ国の兵力5千、首都カブールとバグラム空軍基地を守るためだった。
ところがその後、増派に増派を重ね、07年10月22日現在では38カ国、兵力4万1千余にまで膨れ上がった。8倍強である。性格も「守り」から「タリバン掃討」に変わった。各国の部隊がアフガニスタンの全土に展開するまでに至っている。
ISAFが兵力を増強し、部隊の展開場所も首都から全土にまで広げざるを得なくなった理由は、タリバンの復活である。タリバンの聖地とも言えるカンダハールなどがある南部や東部で、タリバンが勢いを盛り返していることは、以前から伝えられていた。だが、最近ではカブール近郊にまで迫りつつあるようだ。
アフガニスタン滞在中、カブール北東端の村でそれを裏付けるような光景に出くわした。山裾のこの村はアフガニスタン戦争の際、タリバンの基地があったことから米軍の猛烈な空爆を受けた。瓦礫となった家屋の復旧作業が6年経った今も続いている。
山岳地帯に潜みカブール侵攻の機会をうかがうタリバンの掃討作戦をISAFが続けている。村の道路をISAFのフランス軍と米軍の装甲車が山岳方面に向け砂塵を巻き上げながら進んでいた。2、3分もしないうちに攻撃ヘリ・アパッチが同じ方向に飛んでいった。
取材車も後を追ったが、山岳地帯に続く道路の入り口で国軍兵士に止められた。「ここから奥に行ってはならない」
村人に聞いた。「タリバンは(我々に)協力的だったけどISAFは問題を起こすだけだ。みんなISAFに怒っている。(ISAFが展開するようになって)山あいの診療所に行けなくなった」などと口々に語った。村人たちはタリバンと同じパシュトゥン人なので、差し引きして聞く必要があるが、ISAFの展開が村人の安穏な生活を妨げているのも事実だ。
村を訪ねた翌朝、爆弾テロ犯5人がカブールに侵入したとの情報があり、街は厳戒態勢が敷かれた。市民の数より兵士やガードマンの方が多いのではないかと思うほど、街は武装勢力であふれた。カブールでは何事もなかったが、南に隣接するパクティア州で爆弾テロがあり、多数のISAF兵士や市民が死傷した。《つづく》