アフガニスタンの統一国家誕生は遅い。18世紀にパシュトゥン人がカンダハルを首都に初めての統一国家を作った。だが、民族対立のため26年間しか続かなかった。幕開けからしてその後のアフガニスタンを予言していた。
本格的な内戦の時代は1979年、ソ連の介入で幕を開ける。西側諸国によるモスクワオリンピックのボイコット騒動をご記憶の読者も多いのではないだろうか。前代未聞の五輪ボイコットは、ソ連に対する西側の意思表示だった。
モスクワの支援を受けて政権を掌握していた「アフガニスタン人民民主党」(PDPA)内で権力闘争が起きる。ソ連は「アフガニスタン革命を守る」という大義名分で軍事介入した。ソ連の傀儡カルマル政権は、抵抗運動を徹底弾圧した。
隣のパキスタンやイランに逃れた難民の中から、侵攻ソ連軍にゲリラ戦を挑むグループが続々現れた。ムジャヒディーン(聖戦士)と呼ばれた彼らを、米国、サウジアラビア、パキスタンがカネと兵器を提供して支援した。後に起きる9.11テロの首謀者とされるビン・ラディンやアラブ義勇兵は、この頃ムジャヒディーンに加わった。ビン・ラディン一派と米国、サウジアラビアは反ソ「同盟軍」だったのだ。
ソ連は1万人を超す兵を失い、89年に完全撤退した。92年、首都カブールはムジャヒディーンの手に落ちる。ところが権力配分をめぐって紛糾し、再び内戦となる。治安は悪化し、人心が荒廃したところにイスラム原理主義を奉じる「神学生=タリバン」が現れる。タリバンはビン・ラディンの資金援助を受け、怒涛の勢いで勝ち進んで96年にカブールを占拠した。
2001年、米国本土で同時多発テロ9.11事件が発生。米国はビン・ラディンを事件首謀者としてタリバン政権に引き渡しを求めた。タリバンは応じず、米軍はアフガニスタン攻撃に踏み切る。空爆と共に、反タリバンで結束する北部同盟の力を利用し、カブールを陥落させた。
01年12月の「ボン合意」に基づきカルザイ氏を中心にした暫定行政機構が発足し、翌年のロヤジルガ(民族大会議)で「カルザイ大統領」が承認される。だが閣僚ポストの配分をめぐる民族間の対立で不穏な空気がくすぶり続けた。タリバンの復活はこれまでにも述べたが、パシュトゥン族のタリバンと「共闘」している地方軍閥も多い。カルザイ政権が安定しないわけである。
1960年代の王政時代、首相として実権を握っていたのはパシュトゥン人で王族出身のダウド・カーン将軍だった。ダウド首相はソ連にそそのかされてパシュトン人居住地域の独立国家化を目指し、パシュトゥン人優位の経済政策を進めた。非パシュトゥン人が激しく反発する中、ダウド首相は1963年に突然辞職する。
ザヒール国王は首相の後任に王族出身でない人物を初めて首相に据え、新憲法を公布した。「国王は国の象徴であり、統治権はない。国民の意思を現すのは国会である」とする立憲君主制だった。長年、戦乱が続いてきたアフガニスタンに初めて民主的な色彩の濃い国家が誕生したのだった。
ところが1972年、軍部に大きな影響力を持つダウド前首相がクーデターを起こす。ダウドは王政を廃止し、自ら大統領になった。後ろでソ連が糸を引いていることは明らかだった。当時、アメリカはパキスタンに関与を強めていた。ソ連の友邦・インドとの間で封じ込めるにはアフガニスタンを抱き込む必要があったからだ。
結局、アフガニスタンの歴史を振り返ったとき、「平和」と言える時代はザヒール国王統治(1963~1972年)のわずか10年足らずの期間だけだったことになる。
現在のカブールの中心地から街外れにかつての王宮がある。米軍の空爆に遭い、惨めな姿をさらしていた。米軍が攻撃したのは、王宮がタリバンの軍事基地となっていたからだ。
旧王宮は米軍のカブール侵攻から6年を経た今も、なお硝煙の臭いがうすく漂う。それは大国の都合と民族間紛争に翻弄され続けるアフガニスタン国家の姿を象徴していた。《つづく》