「命てんでんこ」 陸前高田 長引く仮設暮らし 

神原津恵子さんの仮設住宅。写真右は訪ねてきた隣人の伊藤正春さん。=高田高校第2グラウンド・陸前高田市。写真:中野博子撮影=

神原津恵子さんの仮設住宅。写真右は訪ねてきた隣人の伊藤正春さん。=高田高校第2グラウンド・陸前高田市。写真:中野博子撮影=


 三陸海岸に向かって小ぢんまりと広がる陸前高田市を見下ろす高田高校。昨年3月、平地を飲み込んだ津波の際、同校グラウンドまで駆け上がり命を拾った人は数知れない。

 グラウンドにはプレハブの仮設住宅が連なる。40戸はあるだろうか。神原津恵子さん(67歳・写真左)の仮設を訪ねた。1DKの質素な部屋にはテレビ、電気こたつ、タンスなどが整然と置かれていた。部屋の片隅には小ぶりの仏壇があった。家族は津波の犠牲となったのだろう。

 神原さんはここが津波後、5軒目の住まいだ。避難所に始まり東京の公営住宅や陸前高田市内の仮設住宅を転々とした。

 「避難所ではたった一つのアメ玉を割って6人で舐めた。お腹が空いているのは皆一緒だからね。ヤクルトをもらった時にも少しずつ飲んだ。10日間もポケットに入れながらね」。神原さんは命からがら生き抜いた頃の思い出を語った。

  お話をうかがっていると、同じ仮設に住む伊藤正春さん(70歳・右)が訪ねてきた。神原さんの茶飲み友達だ。伊藤さんは大津波で妻と息子を失くした。発生後2~3日は眠れなかった、という。

 「震災の後は若者が車から金目の物を盗んだりした。(津波で流されて漂着した)道端のカバンなどは、すべてチャックが開けられていた。自販機を壊す高校生もいた。きれいごとばかり言ってられない。皆、生き抜くのに必死だった」。伊藤さんは辛そうに当時を振り返った。

  陸前高田市でも肉親が無事だった人の方が少ない。神原さんが伊藤さんの話を引き継ぐように話した―

 「生きることと死ぬことは紙一重。命はてんでんこ(※)。他人をかまった人は死んでしまった。住民を逃がそうとして多くの市職員が命を落とした。私は生きなきゃ。その人達のためにも生きなきゃ」。神原さんは自分に言い聞かせるようだった。

 長引く「仮設暮らし」は心身共に疲れるという。「仮設から出て新居に移る人もいますが、次に住むところは決まりそうですか?」

 「引っ越せる人はほんの一握り。年(高齢)だからローンも組めない。跡継ぎもいなくなってしまった。ここからどう出るかが問題。いつも頭の隅には仮設から出なきゃって気持ちがある。どんなに居心地が良くてもね」。2人は異口同音に語った。

 「3・11」から間もなく一年が経つ。住み慣れた地を舐めつくした忌まわしい出来事は、色褪せることがない。一方で出口の見えない仮設暮らしが続く。

                   (文:中野博子)

※てんでんこ
宮城県地方の言葉で「人それぞれ」。「津波てんでんこ」と言えば「銘々の方法で逃げて生き延びろ」。

神原さん手書きの絵手紙。お世話になった人たちに送っている。=写真:中野博子撮影=

神原さん手書きの絵手紙。お世話になった人たちに送っている。=写真:中野博子撮影=


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