「政府は危険性を報せて欲しかった」 沖縄移住の母は悔やむ

「広告代理店が作ったものではない、本物の市民の声をあげて行かねばならない」。母親は力を込めて話した。=7日、経産省前テント。写真:田中撮影=

「広告代理店が作ったものではない、本物の市民の声をあげて行かねばならない」。母親は力を込めて話した。=7日、経産省前テント。写真:田中撮影=

 霞が関取材の帰りに経産省前を通りがかったところ、昨春、東京から沖縄に子供を連れて避難した母親(30代)が脱原発テントを訪れていた。自民党政権に代わって取り壊されているのではないかと心配になったという。

 「3・11」以降、放射能をのがれて福島県はじめ全国各地から沖縄県に移住した人は1,033人にのぼる(沖縄県防災危機管理課まとめ)。

 彼女は小学校3年生の息子と共に昨年4月、沖縄県に移り住んだ。息子と自分の健康を守るためだ。夫は仕事の都合で東京に残ったまま。家族離れ離れの生活が続く。

 今でも後悔しているのが、東京に放射能プルームが飛来したとされる2011年3月15日(原発事故から4日後)に子供を学校に登校させたことだ。

 つい最近、子供が甲状腺検査を受けたところA2クラス(20ミリ以下)の嚢胞と(5ミリ以下の)結節が見つかった。

 「危険だということを知らせてほしかった」「せめて屋内に退避するよう勧告してほしかった」。彼女は政府の対応に強い不満を抱く。

 特に当時官房長官だった枝野幸男氏らには恨みを募らせる。「犯罪に当たらないのが不思議だ」とまで言った。 

 原子力村、政府、霞が関。個人で戦うにはあまりに巨大すぎる相手だ。「市民が結束して声をあげなければいけない」。彼女は自分に言い聞かせるように語った。

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